毎週末は夜のジョギング
毎週末、夜にジョギングしてる。
川に沿って続く道をその日の気分でのんびり走ったり歩いたり立ち止まったり、風が吹いたら早めに引き返し、雨が降ったらお休みで。
ジョギングをしてるからって別段体力が向上した自覚もなく、強靭な足腰を手に入れたわけでもない。それでも、2年以上続けている。
春も夏も秋も冬も走っている。
体に感じる風や道沿いに生える植物が季節の移ろいを教えてくれる。この辺りも案外星は見えるんだな、なんてことにも改めて気付かされる。
考えごともする。思い出を振り返ったりもできる。
だから、夜のジョギングはいい。
妻の故郷の夜空を彩る花火と遠い日の光景
1ヶ月ほど前、妻の故郷で花火を見た。
日本の花火100選でベスト10入りを果たしている大きな花火大会。
辺りは綺麗な田園風景が広がり、大きな建物の少ない地域だから、打ち上げ会場はもちろん、少し離れた場所からでも花火を見ることができる。実際、僕は毎回打ち上げ会場から1kmほど離れた妻の実家近くの田んぼのあぜ道から花火を見る。
大きな夜空に大きな音を立てて打ち上げられる大きな花火、贅沢だなぁといつも思う。
今年の花火も見事なものだった。
前日通り過ぎた台風の影響か、少し風が吹いていた。時折、その風に乗って火薬の匂いが僕の鼻にも届いた。
夜空を彩る花火を見上げてるうちに、僕の脳裏に遠い日の光景が浮かんできた。
それは、子どもの頃に故郷で見上げた花火だった。
僕の故郷で見上げた花火
僕の故郷でも、毎年花火大会が開催されている。
妻の故郷の花火大会に比べると規模は小さいものだ。だけど、それだって立派な花火大会だ。
僕が小学校低学年の頃だったと思う、父に連れられ花火を見に行った。
その道中の記憶はまったく無いし、どんな大きさのどんな花火だったかも覚えていない。おぼろげな記憶の中で鮮明に覚えているのは、花火を見上げた場所のこと。
その場所は、墓地だった。
少し小高い場所にある墓地の階段に座って僕は花火を見上げた。
「ここからよく見えるんじゃ」
みたいな言葉を、すぐ側で父が言ったような気がする。少し笑っていたような気がする。
当時、水木しげるの漫画を読んでいた僕にとって、墓地は怖い場所の象徴だった。
しかも、夜の墓地なんて…。
怖くて周りに目を向けることもできず、ただただ夜空に打ち上がる花火をぼんやり見上げていた。
なんでよりによってこんな場所で…。幼いながらも疑問に思った。
鮮やかに蘇るあの日の光景
2年前の6月、母が亡くなった。
葬儀を終えた後、納骨のため我が家のお墓があるお寺を訪ねた。
実家のほど近くにある母方の先祖が眠るお墓には帰郷の度線香を持って通っていたけど、母が眠ることとなる父方のお墓に足を運ぶのは久しぶりだった。
そのお墓には父の母が眠っている。僕にとって祖母にあたる人だ。ただ、祖母の姿を僕は知らない。祖母は、僕が生まれるよりもっと前に、父がまだ20歳前後の頃に亡くなっているから。
住職に促され、僕の手で母の骨壷をお墓の中に納めた。祖母の骨壷の隣に母の骨壷をゆっくりと並べて置いた。納骨の日は汗ばむ気候だったけど、お墓の中はひんやりしていた。
無事納骨が終わり、改めて墓地を見渡す。小高い丘に段々とたくさんのお墓が綺麗に並んでいる。
そのまま後ろを振り返り、眼下に広がる街を見下ろした時だった。
僕の脳裏に微かな思い出が蘇る。
空を見上げる。
再び墓地に視線を戻す。
上へと続く階段が視界に入る。
ここだ。
この場所だ。
記憶にかかった霞が一気に無くなり、あの日の光景が鮮やかに蘇る。
あの日僕はここにいて、ここから花火を見上げていたんだ。
僕はしばらくその場に立ち尽くし、すぐ側にいる父の背中に目を向ける。
「そっか、ここだったのか。」
もう一度、祖母と母が眠るお墓に視線を移し、僕はゆっくり歩き出す。
あの日父と見上げた花火を、お墓の中から祖母も見上げていたんだな。
そのお墓に、今日から母もいるんだな。
花火とは、故郷とは、家族とは
故郷で暮らした時間より、故郷を離れて暮らす時間の方が長くなった。
きっと年を重ねる毎にその差は広がり続けてゆくのだろう。
花火とは、故郷とは、家族とは…。
そんな思いを巡らせながら、僕はまた夜道をひとり走るのだ。
ゆっくりゆっくり走るのだ。